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ひな祭の話

雛祭が始められたのは江戸初期の事です。

徳川幕府は中国の五行説に基づき季節の変わり目に祝う祝日として五節句を制定しました(1616)。

七草 桃の節句 端午の節句  七夕 重陽です(各節句についてはその季節にお話します) 。

 

その中の桃の節句に雛人形を飾る様になったのは1630年頃からで、時の帝 後水尾天皇の中宮[正妻]東福門院和子が姫の七歳の桃の節句に男女一対の人形を祭る[飾る]事に由来します。

平安時代 宮中の女房の間で流行した 良い殿方と縁結びできるよう、手作りの可愛らしい人形を願いを込めてお祭りした。

 

ひいな遊びの風習 [源氏物語 枕草子などにも記載]また公家 上級武家の間で子供が誕生すると子供の厄除に作られた木偶人形の天児[あまがつ]の風習 厄除の形代流し巳の日の祓いなどを参考にしたと思われます 。

 

我子の幸を願い桃の節句に飾られる風習は日本人の心の文化として現代に受継がれています。

始めは男女一対の人形に次第に婚礼調度品の模型が加わり、 江戸中期には官女、後期初頭には五人囃子が加わりました。

吉宗の世代には 大型にして豪華絢爛になりすぎたために贅沢禁止令の対象にもなりました。

大正 昭和には段飾りが主流でしたが 、現代は住宅のスタイルから豪華な衣装の一対の雛が人気のようです。

現代の一対のひな人形

雛祭の創始者東福門院は家康の内孫・二代将軍 秀忠と正妻お江[淀君の妹]の姫です。

また最初の雛祭の主興子内親王は、約900年ぶりに誕生した女帝 明正天皇として即位しました。

僅か15歳で即位 21歳で退位、およそ70歳で崩御されるまで、佳き殿方とは巡り会えなかったのでした。

  • 節句は旧暦で考えると季節の花と良くマッチします。
  • 五節句には江戸在住の大名は登城して将軍に祝辞を述べる義務がありました。 桜田門の変は井伊大老が桃の節句に祝辞を延べるための登城途中で起こった事件です

このブログに使用した画像の内、現代雛以外は、私の著書「日本人形のあゆみ」から使用致しました。